NerimaShihanmato
赤矢羽

四半的の由来

- History of Shi-han-mato -

飫肥城大手門

戦国時代の頃、現在の宮崎県日南市にある、当時島津家の支配下にあった飫肥城の攻略をめぐり都於郡の浮舟城主伊東義祐率いる伊東軍と島津軍が小越の合戦で激突しました。

この戦で伊東軍側には、農民らが自家製の竹の弓をもって参戦し、気勢を挙げて島津軍を圧倒し、勝ち戦に大きく貢献したと言われています。

その後も日向国(佐土原・都於郡・飫肥)に勢力を拡げた伊東軍は、薩摩・大隈の統一を果たした島津軍の北上にともない、毎年のように戦をすることになりますが、その戦にも義勇軍としてその地の農民らがこの弓矢をもって参戦し、伊東軍の戦力となりました。

やがて伊東軍は島津軍に敗れて国を追われますが、義祐の子、祐兵が豊臣秀吉に仕え、九州侵攻において武功が認められて大名として復権し、以来十四代、二百八十年余にわたって統治をする基礎をつくりました。

この祐兵の頃、小越の合戦などで武功があった武将山田宗昌が西の国境の防備である酒谷城主となります。山田は国境防備の方策として、さきの弓術を奨励し、白木俣に士卒用、各地の部落に農民らのための射場を設けて、的射で気勢を挙げて大いに防備に役立てたと言われています。

このように、伊東軍に対する農民らの支援参加は古くから深いものがあり、その功績に報いるため、娯楽としてまた防備の訓練として、農民らに半弓をもって的射することを許可し、以来飫肥地方の民族的競技としてひろく定着していきました。

この時に決められた的射の定めがあります。

的場の距離 四間半、弓の長さ 四尺五寸、的の径 四寸五分、矢を長くして正座して行うなどが定められました。

この四間半、四尺五寸、四寸五分がすべて4・5つまり四と半分となるので、「四半的」と名付けられました。

現在、「四半的」は日南市無形民俗文化財に指定されています。

This special traditional Japanese archery has been used by farmers for over 400 years (probably from the year of 1550) in southern Kyushu Island (present Miyazaki Pref.)

Farmers at that time participated in a war as voluntary army having bamboo bows and contributed to the victory of their castellany.

This special Japanese archery was allowed to be used only by farmers although the normal Japanese archery was only for strong and brave samurai (warrior) however, this was improved ingeniously to be shorter bow and longer arrow and all necessary actions were done in a comfortable sitting position so that even powerless lady or old aged person can shoot correctly.